岩尾醤油の歩み|人気のうめ醤油|福井の老舗「岩尾醤油醸造元」
岩尾醤油の歩み
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ご挨拶



「ヂガミイワ醤油」の名でご愛顧いただいている私ども岩尾醤油が創業したのは、明治7年のこと。
日本海の荒波が押し寄せる越前海岸・鷹巣村に生まれた初代・孫次郎は、魚の売買で生計を立てていましたが、危険の多い小船運搬業を廃業し、安定した醸造業の開業を決意したことに始まります。創業から現在に至るまで変わらない製法を守り続けるこだわりの醤油は、海の幸を調理するのに最適と料理のプロの方々からも大変ご好評をいただいております。老舗が生んだ絶品の醤油を是非お試しくださいませ。
明治7年創業、
老舗岩尾醤油の
歴史の紹介
初代 孫次郎
我が家の初代孫次郎(幼名糸吉)は、旧坂井郡鷹巣村松蔭区の孫左ヱ門の長男として、文化6年2月16日に生まれたが、幼少の頃より分家することを理想としていました。
天保5年8月1日、22才でわずかの田畑と、日常品、仏具を譲り受け、実母および弟岩蔵をともない分家し、孫次郎と改名しました。家は和布永見大順の家を買いもとめ、現在の松蔭町3号1番地に建て、当地、勝明寺より土蔵を買いもとめ、塩魚を加工し、長橋とみの浦より2名を日雇いし、敦賀、三国間を小舟にて航海し、魚の売買で生計を立てていました。翌々年、天保7年から8年にかけて米穀の不作が続き、物価は高騰し、飢死する者も全国で多く出ました。
当地でも亀島の松、五尺廻り、八尺廻りまで、66本を売り払い、その代金は当家外2名を除き分配し生活にあてた状態で、この時ともに助け合ってきた弟も23才の若さで他界。
その後は孫次郎1人で母を養い、家業を営まなければならなくなり苦しい毎日が続いたようでした。
そのような状況の中で25才のとき、当区孫左ヱ門6女「いと」と結婚しました。
そして飢えを乗り越えるため田の開墾と本業の漁業に取りくみ、食べんがために必死になって働きました。
ようやく飢えも乗り越え、これからという天保11年9月23日に、当区彦平より出火し、当家作業場などが全焼し、どん底につき落とされました。しかし生来負けん気の彼は、翌12年四ヶ浦よりかやぶき1棟を買いもとめ、作業小屋などを再建しました。
その後も数回の暴風雨などで、漁船を失ったこともあるが、努力し続けて嘉永6年、5人頭の役をもらうまでになりました。
文久2年2月、長男初五郎と本家孫左ヱ門5女「ゆう」が結婚したが、危険の多い小船運搬業を廃業し、漁業と魚加工を中心に計画を立てるようになりました。
しかし長男初五郎は31才の若さで病死し、その頃より安定した職業を求めて醸造業の開業を決意しました。
そのため明治6年5月頃までに土蔵などを新築しました。
一方、長男死亡のため、4男乙五郎に家督を相続させ二代目孫次郎を襲名させました。
二代目 孫次郎
明治7年4月、漁業の他に新しく醤油醸造業を開業しました。その後醸造業も順調に発展し、明治14年醸造の場所も手狭になるまでになり、新しく土蔵1棟を建築し、醤油醸造に本格的に力を入れました。
その矢先、明治15年1月13日隣区より出火で、当区の家の大半が焼失する大火にあってしまいました。
その大火の際に孫次郎は、新築したばかりの土蔵内に″とじこもり火"が入って来ると、手押しポンプで消化にあたったため、醤油の原料やもろみだけは助かり、その後の復興が早くできたのは不幸中の幸いでありました。
明治20年土蔵も再築し、もとの状態までに立ち直ることができました。
その後、漁業、醸造業共々順調に発展した。そして、明治41年には、醸造所を2棟増築するまでになりました。
その間、二代目孫次郎は、村の種々な役職を務める一方、人望も集めるようになりました。
明治45年7月1日より塩小売業を開始し、大正3年には、麹製造の免許を受けて、その製造にも力を入れるようになったのです。
三代目 孫次郎
三代目孫次郎は、乙五郎と、初五郎の子「いゑ」との間に、明治21年9月25日に生まれ、幼名を光五郎と称し、明治45年5月5日、当区の阪下市郎右ヱ門長女「かよ」と結婚し、大正14年家督を相続しました。彼は経営手腕があり今までの家業を発展させる一方、木炭販売や発動機船で底引網漁をし大正末期にはようやく家運の隆盛をもたらしました。
当家で製造した醤油は、当地はもちろん、船を持っていた関係上、鮎川、蒲生、茱崎、三国など遠くは北海道まで販売していました。
当時はまだ道が充分でなかったので、原料などの入手もすべて自家の船を利用していました。
そのため運送費などの必要経費も少なくすることができていたようです。
尚、三代目については、残してある家訓を見てもその人がいかに事業家であったかが伺えます。
家訓とは次のようである。
心得五ヶ条
一、本源の小さきを忘れ、流れの大きさほこらざるよう、心掛くべきこと。
一、険と斉、勇と乱、愉と驕とをあやまたざるよう、心掛くべきこと。
一、祖先より伝わりたる営業を盛大ならしめ、一家の円満をかかざらざるよう、心掛くべきこと。
一、営業は、すべて時代により、吉凶あれば時にならい、営業の盛緩を計り、開運の期を待つべき様、心掛くべきこと。
一、従来より伝わりたる営業を廃止し、経験のなき営業に専念せざるよう、心掛くべきこと。
このように我が家運に大きな貢献をなしたニ代目は、昭和18年に、三代目は昭和10年に他界しました。
四代目 孫次郎
幼名久義は、明治42年11月20日、坂井郡春江町田端の上野弥兵衛の五男として生まれ、昭和8年11月4日長女光枝と結婚し、父の死後昭和10年より家督を継ぎ、四代目孫次郎を襲名しましたが、戦いは激しくなり船は戦争にかり出されて、醤油も統制時代に入り、暗い毎日でありました。
戦後間もない昭和21年6月、醤油醸造を家業の中心とすべく、糸崎地区「現在地」に倉庫、もろみ倉、作業場などを新築し、その後、ボイラー圧搾機なども入れ工場内も合理化し、自動車も買い入れました。
昭和33年、当家発展に長年大きな力をあたえてくれた漁業も、不振と漁夫不足のため廃止し、醤油醸造ひとつに家業をかけることになりました。
しかし、二代目も四代目も村や地区役職を多く持ち、地域の発展にカを入れることが多く、この間には三代目、四代目とも、その実弟の協力があったことを忘れてはなりません。
昭和47年2月17日四代目も急病死しました。
五代目 代表、光枝(現代表の祖母)
四代目が昭和47年2月17日に急病死した後、その妻光枝が責任者となりました。
昭和48年には、創業百年祭を行い、伝統を引き継ぎ営業を続けておりました。
その後、光枝も昭和56年に他界しました。
六代目 代表 英信
父学、母玲子の間に昭和36年3月3日に岩尾家に待望の長男が誕生しました。学は越廼村大味の西木に生まれ岩尾家に婿養子として母玲子と結婚、教員をしていたため、代表には付かず一代飛び越し、息子の英信が代表に就任しました。
大学生でもあり作業はもっぱら母玲子と分家祖父が行っていました。その後定年退職した父が作業を継続しました。
大学(福井工業大学機械工学科)卒業後、機械設計への道に進み会社勤めをしながら家業を手伝い、39歳の時に独立設計業をやりながら、父学が平成23年9月に他界。本格的に全部の作業を継続。
よく何代目?と聞かれると困っています。
その後、父が植えた梅の中で出荷出来ない梅を活用出来ないかと考え、梅醤油等を製品化(福井の恵み)の認証をもらった商品を作り新しいことにチャレンジ中。